コンデンサの歴史③~初めての大量生産で雲母の価格が上昇~

    コンデンサーの原型はライデン瓶ということは、先に書きましたが、工業生産される最初の電子部品として登場したのが、マイカコンデンサーです。マイカというのは雲母のことです。考案したのはアメリカの発明家 ウィリアム・デュビラー (1888-1969)です。

    William Dubilier(出典:Wikipedia英語版)

    デュビラーは無線通信機器に強い興味を持ったニューヨーク育ちの少年でした。彼はライデン瓶よりも小さく頑丈で価格も手ごろなコンデンサーを、航空機の無線通信機用につくりたいと思っていました。当時、ほかの専門家達もデュビラー同様に、実用的な高電圧のコンデンサーを作ることを思索していましたが、1891年に二コラ・テスラがすでに雲母と絶縁油をつかったコンデンサーを開発していたので、素材として雲母が適しているということは、皆、わかっていました。

    1910年、デュビラーは自分が発明した最初のマイカコンデンサーを海軍に実演して見せようとしましたが、なんとテストの最中に壊れてしまい、海軍から開発費を引き出すことに失敗。しかし、1913年、今度は当時の英国国防省に実演して見せたところ、実演は成功し、英国国防省は彼のコンデンサーにとても興味を持ちました。ライデン瓶を連ねたものよりもとても小さく効率的だったので、英国国防省はデュビラーのコンデンサーには将来性があると考えたのです。

     

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    その後、デュビラーは「デュビラー・コンデンサー社」を設立し、マイカコンデンサーを量産し始めました。しかしこれは簡単なことではなく、設計と製造面での問題が山積みでした。例えば、マイカ(雲母)は地中から採掘される鉱物のため、小さな穴や、ひび、空洞、包有物など、いろいろな欠陥が見つかります。迅速かつ効率的にプレートをテストする方法を考える必要がありました。

    ライデン瓶2本と置き換えられるデュビラー社の初期のマイカコンデンサー(出典:A Dubious History of Capacitors)

    当時のマイカコンデンサーには1枚が厚さ.002インチ(0.00508センチ)ほどのプレートが1,000枚ほど使われていましたが、効率的なテスト法はじきに見つかり、それは解決したものの、今度は別な問題が発生しました。マイカコンデンサーを量産することにより、デュビラーコンデンサー社は、1年で5000万枚ものプレートを使ってコンデンサーを量産する最初の会社となり、他の会社もそれに続いたため、良質なマイカの価格の急騰と深刻な供給不足という新たな問題が起こってしまいました。

    苦労して生産されたマイカコンデンサーでしたが、残念ながら、市場を席巻するには至りませんでした。実は同じころ、ライデン瓶の性能も徐々に向上し、用途によっては低価格を維持していたからです。1920年代に入ってもライデン瓶は使われ続けました。現在でも愛好家は高電圧の実験のために、ビール瓶で作ったコンデンサーを好んで使います。一方で、当時のデュビラー・コンデンサー社の年代物は、オーディオ愛好家に人気があります。

    現在では、マイカコンデンサーは、汎用的な電子部品ではなくなったものの、400V以上の耐圧があり、高圧がかかるオーディオ回路では非常にありがたいコンデンサという評価がされています。エレキギターの真空管アンプもそうですが、先端を行く電子部品としての役目を終えても、レガシーなデバイス音の世界では今も生き続けているようです。