単位の歴史(13)~伊達藩62万石の「石(こく)」ってどれぐらいのお米?~

1石(こく)は大人ひとりが1年間に食べるお米

江戸時代(文久3年)の記録によれば、大名の石高(こくだか)ベスト3は
1位・・・加賀藩 120万石
2位・・・薩摩藩 72万8000石
3位・・・仙台藩 62万石
だそうです。

私達の宮城県は全国ランキングの第三位なのでなんとなく晴れがましい気持ちになりますが、石高というのは領地から穫れる米の収量を体積で表したもので、1は10斗(と)ですから米の量のイメージとしては一斗缶の10個分(約180リットル)ということになります。

これを米の重さに換算すると約150キロです。当時の年貢米は玄米で納められていたので、今の時代に置き換えると、30キロの玄米が5個分ということになりますね。

石(こく)は1合(180ml)→1升(1.8リットル)→1斗(18リットル)と10倍ずつ増えていく日本の古い単位の延長上にあるものですが、都合のよいことに大人1人が1年間に食べるお米の量とほぼ同じなのです。

そのため一石兵一人が一年に食べる量とされて、軍事動員力を示す石高制の基礎単位としてつかわれてきました。

つまり昔の日本では、領地の面積ではなくそこから穫れるお米の量で藩や大名がランク付けされて、政治にも活用されていたわけです。この考えが導入されたのは豊臣秀吉の太閤検地からですが、実際には兵力から石高を逆算したり、米があまり穫れなくても貿易で成り立っているような藩は利益から按分されるなどの例外もあったようです。

大名の管理に都合がよかった石高制

石という単位は中国から入ってきた単位です。古い中国では「石」をセキと読んで重さを表しました。体積の単位はこれと別に「斗」の10倍の「斛」(コク、)がありましたが、なぜかその通りには伝わらず、日本では「石」をコクと呼んで体積を示すようになりました。

日本における石高は組織の財力(兵力)や家の家格を表す単位として定着しましたが、穫れたお米の量から判断されたわけではなく、「ここならこれぐらい穫れるだろう」という検地の査定によってまず最初に土地が格付けされ、農地ではない家屋敷や河原などもその方法で判定されました。

それに応じて年貢米の量が決まり、五公五民という税率50%の大原則に則って(状況により変動)、収穫された米は村単位で領主に納税されたのです。
つまり62万石といっても、62万石のお米がすべて手に入るわけではなく、藩が徴収できた米はだいたいその半分ということになります。

領地から上がってきた米は江戸や大阪に送られ、専門の業者を通じて換金されました。
各藩の新田開発などで石高と実勢値が段々かけ離れてゆき、表向きの「石高」はやがて、建前上の数字になっていきましたが、(江戸幕府などの)中央集権組織にとって石高制度は非常にシンプルで扱いやすい指標でした。そのため幕府が行う江戸城修復や河川土木工事の負担も石高によって割合が決まり、加増や厳封・転封の単位としてもつかわれました。

ちなみに伊達藩62万石の内、2万石は滋賀県と茨城県にあったそれぞれ1万石の飛び地です。これは関ケ原の戦いの功績によりあとから加増されたもので、これが幕末に至るまで仙台藩の基本的な石高となりました。仙台藩の飛び地だった東近江市にはいまも仙台藩の代官屋敷だった建物が現存するそうです。

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