電気と技術の知られざる偉人たち(08)~仏具職人から理化学器械の製造へ。初代島津源蔵は京都ハイテクベンチャーの先駆者~

初代 島津源蔵 年表
1839年(天保10年) 仏具製造の島津清兵衛の次男として京都に誕生
1860年(万延元年) 分家して木屋町二条に仏具製造の店を開業/21歳
1875年(明治8年) 島津製作所を創業/36歳前後
1877年(明治10年) 第一回内国勧業博覧会に出品。同年、気球の友人飛行に成功/38歳前後
1882年(明治15年) 理化学機器の目録政策
1886年(明治19年) 工場と店を拡大、創業時の4倍の大きさに/47歳前後
1894年(明治27年) 脳溢血のため逝去/55歳

21歳で仏具製造の家業から分家して開業

(画像:島津製作所

初代島津源蔵は計測機器メーカー「島津製作所」の創業者です。同社の社員だった田中耕一氏が2002年(平成14年)にノーベル賞を受賞したことをご記憶の方も多いと思います。

また島津製作所は当社が代理店を務める「GSユアサ」の前身である「日本電池」の母体となった会社でもあります。

初代島津源蔵は、醒ヶ井魚ノ棚(現在の堀川六条付近)で仏具三具足(香炉・燭台・花立)の製造をしていた父・清兵衛の次男として、1839年(天保10年)に生まれました。

父・清兵衛に従って家業を修め、1860年(万延元年)、21歳の時に分家、独立して仏具三具足の製造を始めました。

その頃、初代源蔵が居を構えた木屋町二条では、勧業場、舎密局(せいみきょく)などが開設され、京都における殖産興業の一大拠点となっていました。

舎密局は、明治時代に化学技術の研究や教育のためにつくられた官営・公営機関で、「せいみ」とはオランダ語の「chemie(化学)」に対する当て字です。

舎密局は京都を代表する化学者や科学者、役人などが出入りする場所であり、本来なら初代源蔵のような職人が顔出しできる場所ではありませんでしたが、生来の新しもの好きの初代源蔵は、足しげく通うことで学者や役人たちに顔を覚えてもらうほどになりました。

科学で日本を盛り立てたいと決意

(画像:島津製作所

舎密局によく出入りした源蔵は次々と輸入されてくる西欧の新しい理化学機器に強い関心を持ちその研究に熱中しました。

そして国や京都の政治家が「科学立国」を目指していることを知り、30代の半ばに仏具製造の店をやめて、教育用理化学機器製造工場「島津製作所」を創業しました。

その背景には、開業して8年後に明治維新が起こり、廃仏毀釈の広がりによって仏具の注文が激減したことも一因に挙げられます。

しかし初代源蔵は仏具製造で得た金属加工や組み立ての技術を持っていました。輸入されてくる理化学機器は自分たちの手でも生産できると確信した初代源蔵は「これからの日本を科学で盛り立てたい」という強い意志を持って新しい事業に飛び込みました。

わずか1枚の絵図から日本発の有人気球を成功させる

初代源蔵が島津製作所を興してまもない1877年(明治10年)、京都府槇村(まきむら)知事からの命を受けた学務課長・原田千之介から初代源蔵のもとに「気球を製作してみないか」と依頼が来ました。

それは科学の力を見せることで人々の理科教育への関心を高めることが目的でした。

その頃、初代源蔵はオランダ軍医ゲールツと出会っていろいろな知識を得ており、東京で開かれた第一回内国勧業博覧会に製品を出品して表彰もされていました。

研究熱心な姿勢が目に留まり指名を受けた初代源蔵でしたが、本人は気球を一度も見たことがなく、資料もわずか一枚の絵図だけでした。

それでも試行錯誤を続け苦労の末、ついに日本初の有人気球飛揚(高さ36m)を成功させました。それは酒樽で発生させた水素をゴム引きの絹織物でつくった球皮に充填させる方法でした。

この成功によって初代源蔵の評価が大いに高まりその後の島津製作所の原動力になりました。

京都は伝統工芸に携わる人が多いものづくりのまちでもあります。この成功は東京遷都で沈んでしまった京都の人々に自信と誇りを取り戻させ「東京に負けない」という京都の技術者の心を大いに鼓舞したと思われます。

初代源蔵は55歳で亡くなりましたが、その好奇心と探求心とものづくりのセンスは彼の息子である二代目島津源蔵に受け継がれました。

(ミカドONLINE編集部)


参考/参照記事 島津 親子二代記~信頼と情熱の軌跡 島津製作所の創業者、「日本初」尽くめの発明家“親子”が残したもの 島津源蔵親子の伝記「仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝」が発刊!!  など

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