電気と技術の知られざる偉人たち(10)~成功しても世界の歴史に名を残せなかった屋井先蔵~

屋井先蔵 年表
1864年(文久3年) 越後長岡藩士屋井家に生まれる
1875年(明治8年) 東京の時計店の丁稚になるも病気のため帰郷/13歳
長岡の時計店「矢島」で修理工として7年間年季奉公
東京高等工業学校(現:東京工業大学)受験に2度失敗
1885年(明治18年) 連続電気時計を発明/21歳前後
1887年(明治20年) 「乾電池」の発明に成功/23歳前後
1891年(明治24年) 連続電気時計が日本初の電気に関する特許として認定/27歳前後
1893年(明治26年) シカゴ万国博覧会に帝国大学が屋井の乾電池を使った地震計を出品/29歳前後
1894年(明治27年) 日清戦争が勃発し屋井の軍用乾電池が成功を収める/30歳前後
1910年(明治43年) 合資会社屋井乾電池を設立/46歳前後
1927年(昭和2年) 胃がんに急性肺炎を併発して急逝/享年63歳

電気時計の発明から乾電池へ

屋井先蔵(画像:一般社団法人電気学会

世界に先駆けて乾電池を発明しながら、世界の歴史には名を残せなかった技術者がいます。インターネットが発達した今では日本でその名を知る人も多いのですが、世界的には全く無名の屋井先蔵です。

屋井は長岡藩士の家に生まれましたが、父が幼少のころに他界したため、13歳から時計店に丁稚奉公しました。

屋井は幼いころから天体や水車、コマなど回り続けるものに興味があり、時計店で腕を磨くうちに「永久に運動を続ける『永久機関』をつくりたい」という夢を抱くようになりました。

残念ながら入学を目指した東京高等工業学校(現:東京工業大学)は二回とも受験に落ちてしまいましたが、そのうちの1回は周囲の時計がばらばらで不正確だったことによる遅刻とも言われています。

電気時計の特許の図面(画像:TIMEKEEPER kodokei.com

そういった事情もあったためか、屋井はその後も独学で勉強を続け、1885年(明治18年)には正確に時を刻む「連続電気時計」を発明します。

それは電気が照明としてようやく普及し始めたこの時代に、自作の電池で時計を動かすという画期的なものだったので、始まったばかりの特許制度において、電気に関する最初の特許となりました。

しかし、このときの電池は液体式であり、液が漏れたり冬場には凍るなど、決して使い勝手のいいものではありませんでした。

東京物理学校(現:東京理科大学)の付属職工となっていた屋井は、専門知識に触れたり教授陣に相談する機会などもあったと思われます。

これを機にもっと簡単に取り扱える電池が欲しいと思い始めた屋井はここから乾電池の開発に取り組み始めました。

そして、電解液は石膏でペースト状に固め、腐食しやすい正極にはロウをしみこませるなどの工夫を重ねて、1887年(明治20年)についに世界初の部類に入るオリジナルな乾電池を発明しました。

資金がなく特許を出願できなかった屋井

屋井乾電池(画像:funbid.com.hk

屋井の乾電池は非常に優れた発明でしたが、この当時はまだ「電気製品」が国内になかったため、注目度が低く売れ行きも不振でした。

その状況が変わったのは、東京帝国大学理学部が1893年(明治26年)のシカゴ万博に出品した地震計に屋井乾電池が使用されたことがきっかけです。

けれど注目を浴び始めたこの電池の特許はすぐに出願されませんでした。屋井に高額の手数料を払うだけのお金がなかったからです。

前回の連続電気時計もさっぱり売れず、資金が底をついてしまった屋井にとっては、高いお金を払って特許を取得しても売れなければ、自分がいっそう苦しくなるだけという思いが強かったのかもしれません。

そんな屋井がようやく乾電池の特許を申請したのは発明から6年も経った1894年のことでした。その間に、日本での最初の乾電池の特許は通信省の電気技師高橋市三郎によって取得されてしまいました。

また海外ではカール・ガスナーが自国のドイツで1886年、米国で1887年に特許を取得しました。ガスナーはほかにオーストリア・ハンガリー、ベルギー、フランス、イギリスでも特許を取得していますし、デンマークでもヘレンセンが乾電池の特許を取得し、屋井は早い段階で乾電池を発明していたにも関わらず、記録の上ではどんどん先を越されてしまいました。

しかも米国ではシカゴ万博で屋井乾電池を見た人物がそれを真似て特許を取得し、その模倣品が日本に逆輸入されるなど、残念なできごとが続きます。

けれど公的な記録では出遅れても屋井はその後、事業で成功を収めることができたのです。それは1894年(明治27年)に勃発した日清戦争で、屋井乾電池が戦地の通信機に大量に採用されたからです。

軍用乾電池が極寒の地で威力を発揮

屋井乾電池販売部(画像:CBC web

日清戦争で屋井乾電池は満州のような極寒の地でも凍らずに威力を発揮しました。

新聞各紙はこれを「満州での勝利は乾電池によるもの」と報じたため、ここで屋井乾電池の評価がいっきに高まりました。

中国やロシアが使っていた電池は液体式だったため、寒冷地では凍ってしまい無線が打てなかったのです。

着実に実績を積み上げてきた屋井は1910年(明治43年)合資会社屋井乾電池を設立して神田区錦町一丁目に販売部を新築し、浅草には広い工場を設けて乾電池の本格的な量産に取り掛かりました。

その後も改良を重ねた屋井乾電池は日本国内のシェアを確保して海外品との競争にも勝ち、屋井は乾電池王とまで呼ばれるようになりました。

屋井のつくった会社は今はなく、よい後継者がいなかったのだろうと言われていますが、世界の歴史に名を残すことはできなくても、世界に先駆けて優れた乾電池を発明した功績は消えるものではありません。

屋井は東京に出るために三国峠を越え、残雪の残る山肌を振り返ったときにそれが白いツツジのように見えたことから、故郷のことを忘れることのないよう都内の自宅に白いツツジを植えて生涯愛したそうです。

そこから屋井の生涯を描いた本は「白いツツジ」というタイトルになっています。

(ミカドONLINE編集部)


参考/参照記事 乾電池の発明者:屋井 先蔵氏 明治24年に特許を取得した電気時計 電池の歴史1 屋井乾電池  など

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