電気と技術の知られざる偉人たち(12)~日本のエジソン藤岡市助と共同で国産発電機をたくさんつくった三吉正一~

三吉正一 年表
1853年(嘉永6年) 周防国岩国に生まれる
1871年(明治4年) 大阪の開城学校に入学/18歳前後
1875年(明治8年) 富岡製糸場の伝修生となる/22歳前後
1877年(明治10年) 工部省電信寮に入り技手となる/24歳前後
1877年(明治10年) 内国勧業博覧会に踏転繰糸機を出品し褒状を受ける/24歳前後
1883年(明治16年) 転勤を拒否、自宅に三吉電気機械製造工場を設立/30歳前後
1887年(明治20年) アーク灯用発電機や電信電話機などの製造販売/34歳前後
1887年(明治20年) 三吉電機工場を設立/34歳前後
1888年(明治21年) 宮城紡績水力発電所(仙台市三居沢)に発電機を納入/35歳前後
1890年(明治23年) 白熱舎(東芝の電灯部門の前身)を設立/37歳前後
1890年(明治23年) 国産白熱電球の試作に成功/37歳前後
1896年(明治29年) 東京白熱電灯球製造㈱を設立、取締役社長に就任/43歳前後
1898年(明治31年) 日清戦争後の不況により三吉工場を閉鎖/45歳前後
1898年(明治31年) 東京白熱電灯球製造㈱ 取締役社長を辞任/45歳前後
1906年(明治39年) 病没/享年51歳

多くの電灯会社に納入された三吉電機の発電機

(画像:編集部撮影 2014)

仙台市で今も現役の三居沢水力発電所は、記録に残っている中では日本で最初の水力発電所です。ここは当時、宮城紡績という紡績会社の工場で、電気(照明)が将来必須のインフラになると見越した社長の菅克復が発電機と電灯を購入して水力発電所をつくり、東北で一番初めに灯りを灯した記念の地でもあります。(現在は東北電力が管理)

そのときの発電機と同型機が、隣接する電気百年記念館に展示されています。これは1886年(明治19年)に製造されて1888年(明治21年)に納入された直流5kWの発電機で藤岡市助が設計し、三吉電機工場で製造されたものでした。

藤岡市助は日本のエジソンと呼ばれた明治時代の電気工学者・実業家ですが、三吉電機工場を設立した三吉正一(みよししょういち)はその藤岡と二人三脚で発電機や電球などの国産化を進めてきた技術者です。

(関連記事)国産初の白熱電球をつくった藤岡市助は電気事業の発展に尽力した“日本のエジソン”

三吉がつくった三吉電機工場は日本で最初の重電機器製造会社として名を馳せ、藤岡の技術指導を受けてつくられた三吉電機製の国産発電機は、電気の黎明期に全国で設立された数多くの電力会社(当時は電灯会社)に納入されました。

転勤を拒否して起業、藤岡市助の協力を得る

三吉電機工場を設立した三吉正一は 1853年12月(嘉永6年11月)周防国岩国(山口県岩国市)に生まれました。学校を卒業して富岡製糸場に入社した三吉は、富岡製糸場の伝修正として機械技術を学び、機械をつくる志を持つに至りました。

やがて会社を辞めて工部省がつくった東京電信修技校で通信術を学んだ後、1877年(明治10年)に工部省電信寮製機科に入り技手となりました。

しかし三吉は6年後に懲戒免官となってしまいます。東京で電気技術を学びたかったため転勤を拒否したからです。

そこで三吉は自宅に工場をしつらえ電信、電話機、電鈴等の製造販売を始めました。これが日本初の電機製造会社三吉工場(のち三吉電機工場)の誕生になりました。

三吉にとって幸運だったことは、同郷の岩国出身である工部大学校の藤岡市助の協力を得られたことです。三吉は電信局技手時代に勤務の傍ら電気機械の製作に取り組んでおり、工部大学校の教授で逓信省の技官でもあった藤岡市助によく指導を受けていました。

公私ともに親しくなった二人は、やがて藤岡が設計した機器を三吉が製作する関係になり、このペアで数々の機器装置を製作しました。

藤岡と共に初の国産白熱電球の製造に成功

初期のチップ(つの)付電球(画像:Tochiba Clip

1886年(明治19年)藤岡は東京電燈の技師長になりました。官吏として出世する道を捨て、事業家として自らも発起人となっている電燈事業の普及に尽力する決意をしたのです。

そして日本で最初の電灯会社である東京電燈が営業を開始すると、三吉は東京電燈の機器の製造修理を請負うことになりました。それに伴う業務の拡大で三吉は自宅兼工場だった港区西新橋から工場を港区芝五丁目に移転させ、名前も三吉電機工場に改めました。

東京電燈が営業を開始すると同社には各地から電燈会社設立や事業所の発電所建設の相談が殺到しました。藤岡が指導・設計をし、東京電燈が工事を請け負いほとんどの工事と機器製造が三吉へ委託されました。

しかし発電機は国産化できても肝心の白熱電球はいまだ高額な外国製に頼っていたため、藤岡と三吉は共同で白熱舎という会社をつくりエジソンから寄贈された30個の白熱電球を基に、二人で国産化に乗り出しました。

そして努力の末に、4か月後には試作品に成功し、しだいに生産量を増やしていきました。このときの白熱舎がやがて東京電気になり、前回ご紹介した田中久重の芝浦製作所と合併して東芝になります。この時代の技術者たちは、本当に誰かがどこかで必ずつながっている感じですね。

しかし残念なことに三吉正一の三吉電機工場は日清戦争後の不況により経営危機に陥り、最終的に売却されてしまいました。工場買収を申し出たのは日本電気の創業者である岩垂邦彦です。そして三吉の工場はやがて日本電気の本社工場となりました。

三吉は病気で51歳の時に亡くなりましたが、発電機、電車用諸機械、各種電線、 電気計器、変圧器、電気試験機、点火用諸器具、電灯装飾品、 電話機、電信機、電鈴、避雷針、汽缶、水車、水管、煙突な ど幅広い分野にわたる電気機械や製品を製造し、教育にも熱心であったため、三吉の工場は次世代で活躍する多くの技術者を輩出しました。

(ミカドONLINE編集部)


参考/参照記事 三吉正一(Wikipedia) わが国最初の電気機器製造会社 三吉工場(PDF)  中部のエネルギーを築いた人々(PDF) 東北電力株式会社 三居沢発電所 東北に初めて電気がついた日 「藤岡市助」我が国最初の大学ベンチャー(第4回) 日本初の白熱電球 暗闇を照らす一筋の光 など

    ♠この記事をお読みになっていかがでしたか?(複数可)
    面白かった参考になった仕事に役立つ普通期待したものと違った面白くなかった

    ニックネーム(任意)