ミカド電装マイヒストリー 樋口本部長 ①事務職で入社後、営業に転じて切り拓いてきたミカドの歴史

    みかドン ミカどんミカド電装商事の歴史とエピソードを社員の目線で語っていただく「ミカド電装マイヒストリー」のシリーズです。今回は当社の取締役で営業部の樋口正和本部長に入社してからの歩みや思い出を伺いました。

    樋口正和取締役(ミカド電装商事株式会社)_00123.MTS_003950680

    事務職で入社したのに数日後に点検作業の手伝い!そしてすぐ営業へ

    編集部 入社はされたのはいつですか?前はどんなお仕事だったのでしょうか?

    樋口本部長 入社は1988年の 2月 1日です。男性事務職の募集が出ていたので応募したんです。前の仕事は電機メーカーの特機部門(冷凍/冷蔵ショーケースや自販機など)で事務をやっていました。商業高校の出身なので次も事務職の仕事に就きたかったんです。

    ところが事務で入社したのに、2日目に「人が足りないから」と言われて地下鉄の点検作業の手伝いで夜勤をし(笑)、その後同じ理由で「営業を手伝ってくれないか?」と言われて営業職になり、”お手伝い”と思っていたのになぜかすぐに担当を持たされまして・・・。
    自分はこう見えても人見知りのところがあって人と話すのが苦手だったので、当時は随分文句も言ったんですけど、「1年だけ」という約束で営業課に移り、段々抜けられなくなって今に至っています。騙されましたね(笑)

    編集部 最初に担当したのはどんなお客様だったんですか?

    樋口本部長 鉄道会社です。僕が入社したときはまだ自動車電池がメーンでしたが、自動車電池を扱うのが「販売課」で、直流電源装置や産業用の蓄電池を扱うのが「営業課」でした。
    当社は自動車電池のほうで鉄道会社の資材部門に事業者登録があり、自動車電池の納入などは多少あったのですが、そのご縁で産業用電池もちょこちょこと発注をいただいており、そちらを手伝ってほしいと言われました。

    編集部 その頃はまだそれほどお取引きが多くなかったんですね。

    樋口本部長 それが・・・僕が入社した次の年、1989年にMSEという新しい蓄電池ができたんですよ。これは密閉式の鉛蓄電池でメンテナンスの手間も要らず、しかも寿命も従来の鉛電池より長いんです。鉄道会社さんではそれまで、高いけど長寿命のアルカリ蓄電池を導入されていたんですが、安価で寿命もそこそこ長くコストパフォーマンスに優れた鉛の新製品が出たので、東京(本社)のほうでこれに切り替えようという話になったみたいなんです。

    鉄道会社って新しいものを採用するときには、お客さんの少ない地域から入れていくんです。その新しい電池はどうやら東北から導入していくらしいという話になったので、そこでもう、カタログを持ってわーっとドサまわりですよ。今では考えられないアナログな手法ですよね。

    新製品の発売で東北各区の拠点をひとりですべて営業

    樋口正和営業部長(ミカド電装商事執行役員)_4tai3_00123.MTS_003456686樋口本部長 その頃の鉄道会社さんは電力区や信号通信区など各部門の拠点がひとつの県のあちこちに何か所もあって、資材部門だけでなく現場から直接発注をいただくケースもありました。なので東北を一人で全部回りました。ツアーですよ、ツアー(笑)、あれは若かった(20代前半)からできたんだと思います。

    回ると言っても、(当時の)東北自動車道は安代までしか開通していませんし、当然ナビなんかないですし、地図だけ見てうわーって探しながら尋ね歩いていましたね。
    そしてトントンって入って行って「GSユアサ代理店のミカド電装商事です。 こういうバッテリーができました。よろしくお願いします。」ってカタログ置いて帰って来るんです。

    編集部 そうやって一件一件、回って行かれたんですね。前回の阿部相談役は営業の苦労話をされていましたが、樋口本部長も大変でしたか?

    樋口本部長 はい。トントンと入って行っても、顔を見てくれない担当者もたくさんいました。それに日本電池(GS)とユアサがまだ合併する前だったので「うちはユアサだから」と門前払いをくらうときもありましたし、「来るな」と言われたこともあります。

    僕は工業高校出身ではないし、元々事務職希望で入って来て電気の「で」の字も知識がなかったですし、その上人見知りなので、やっぱり営業は嫌でした。つらかったですよ、ご年配の方ばかりでしたし。
    ですが、なぜか先方の大元の担当者さんが可愛がってくださって、発注形態が変わるときに系列会社にご紹介いただいたりして、少しずつ顔見知りの担当者さんが増えてきたんです。

    やがて導入が進んで来ると「どこそこで入れていただきました」という実績もアピールできるようになり、段々喋れるようになってきました(笑)
    鉄道会社さんが東京で一括購入する蓄電池は仕様上の都合で日本電池(GS)のものが多いのですが、その辺も説明して「工事のコストやメンテナンス上、同じ会社のほうがいいですよ」ときちんとご提案もできるようになりました。

    編集部 少しずつ営業スキルに磨きがかかってきたんですね!鉄道会社さんに関しては、技術面でも盤の改造などで大きな工夫をされたと伺っており、とても興味があります。ぜひそちらも次回にお聞かせください。

    樋口本部長 わかりました。

    自動車バッテリーの取り扱いをやめ産業用一本に

    樋口正和営業部長(ミカド電装商事執行役員)_4tai3_00123.MTS_004798293編集部 現在当社では自動車用のバッテリーを扱っていませんが、いつ頃からやめたのですか?

    樋口本部長 私が入社したあたりからその兆しはあったんですが、当時の東北のインフラ発展にともない、電力会社さん、自治体の公共事業、鉄道会社さんなどの産業分野が増えるにつれて、今までメーンだった自動車電池と売り上げの構成が逆転し始めたんです。

    自動車電池の性能が向上して長持ちするようになったこともあり、今までのようには売れなくなってきたのかもしれませんし、ユーザーのほうも意識が変わり、1台の車を整備しながら長く乗りたいとは思わなくなってきたんじゃないでしょうか。

    当社は自動車電装部品のミカド電機工業株式会社さんと創業者が同じです。ミカド電機工業株式会社さんは県外にも支店をお持ちですが、宮城県に関しては一部のエリアを私達が担当してリセールをしていました。1992年、それをすべてミカド電機工業株式会社さんにお返しして、こちらは産業分野一本で行かせていただこう、となったんです。

    そのときに今まで電装品を扱ってきた販売課がなくなりました。工事課に移った方もいますが退職された方もいました。

    (参考)ミカド電装ヒストリー

    現在は電材店様にも納入させていただいています

    編集部 当社は現在、電材店さんともお付き合いがありますが、電材店も樋口本部長の開拓と聞いています。きっかけは何だったのでしょう?

    樋口本部長 電材店さんは、元々は日本電池(現:GSユアサ)から引き継いだお客様なんです。日本電池が照明部門の窓口を仙台から引き揚げることになり、東北にメーカーの出先機関がなくなってしまうので「ミカドさん、お願いできませんか?」と打診されたのがきっかけです。

    そこで僕がメーカーさんと一緒に「今後は当社でお引き受けします」と各電材店さんにご挨拶に回りました。ですが、せっかくのご縁なので、その後は照明だけでなく蓄電池のほうもカタログセットをつくって、うちの取り扱い商品を全部入れて、ミカド電装商事って書いて(笑)キングジムの分厚いファイルに閉じて持参しました。300ぐらいつくったかなぁ。

    電材店さんも当初は厳しい道のりでした。会社の偉い方にご挨拶に伺うと「(我が社の)所長たち全員に承認をもらってから来なさい」と言われて、全営業所を回ったこともありました。今から10~15年前でしょうか。

    今は携帯やパソコンですぐに連絡が取れてしまうし、メールだってスマートフォンで出先から返信できてしまいますよね。受発注のスピードも非常に速くなっていて、昔のように時間をかけて1件1件を回り切れないジレンマもあります。

    交通や通信の手段があまりなかった昔のように、一度出張に出たら2泊3日や3泊4日しないと帰って来れないということはなくなりましたが、あれはあれでいい時代だったのかな、と思います。今は出張に出ても、どこまでも追いかけて携帯に連絡が入りますからね(笑)

    編集部 確かにそうですよね。プライベートがなくなってしまうので、通信手段の発達も逆に不便なときもあると思います。
    次回は、鉄道会社さんの盤を改良したエピソードや営業の工夫についてお聞かせください。本日はありがとうございました(つづく)