ノーベル賞日本人受賞者(3)川端康成氏は何をした人?~1968年(昭和43年)文学賞を68歳で受賞~

    みかドン ミカどん2021年10月5日現在での日本人ノーベル賞受賞者は28人です。ですがいったい何をした人なのかよくわからないという方も多いのではないでしょうか?今回は日本人三人目のノーベル賞受賞者 川端康成です。

    日本人の心を繊細に描いてノーベル文学賞を受賞

    川端康成はノーベル文学賞を1968年(昭和43年)に68歳で授賞しました。

    授賞の理由は「日本人の心情を非常に繊細な表現で描いた叙述の卓越さ」でが評価されたことでした。ノーベル文学賞の受賞者はそれまで西洋の作家に偏っていたため、それを見直す動きもあったようです。

    川端康成は代表作に「伊豆の踊子」「雪国」「山の音」「古都」などがある現代文学の第一人者です。

    「伊豆の踊子」は、一人旅の学生と旅芸人一座の若い踊り子とのほのかな恋と別れを描いた名作です。文庫本で30ページほどの短さですが、何度も映画化されました。1974年には山口百恵さんが主演し、その後、相手役に抜てきされた三浦友和さんと結婚したのは有名なお話ですよね。

    1899年(明治32年)大阪市に生まれた川端康成は、両親と死別して3歳からは大阪府茨木市の祖父母のもとで育てられましたが、その祖父母とも相次いで死別し、15歳で天涯の孤児となりました。

    その境遇の淋しさを文学に没頭することで慰め、美しいものへの憧れで癒したようですが、肉親と縁の薄い生い立ちは、その文学にも深く影を落としています。

    川端康成は、旧制茨木中学を卒業後、文学への志を胸に秘めて上京し、作家への道を歩み始めます。親戚の家に居候をしながら予備校に通い、教師から「お前の成績では無理」と言われた旧制一高(現:東京大学)に合格し、文科第一部乙類(英文科)に入学しました。

    その背景には、中学に首席で入学したもののどんどん成績が落ちて行ったことへのリベンジや、そこで自分を馬鹿にした教師や生徒を見返したい思いがあったようです。

    自ら命を絶ってしまった二人の文豪

    旧制一高を卒業した川端は横光利一らと「文芸時代」を創刊。新感覚派の代表作家として活躍しました。

    川端は次々と作品を発表する傍ら、評論活動も旺盛で、幾多の新人を育て、日本ペンクラブの会長として、また国際ペンクラブの副会長として東西文化の交流に貢献し、日本近代文学館の設立に尽力するなど多方面に大きな足跡を遺しました。

    1968年、ノーベル賞受賞後の会見で川端は以下のように述べています。

    「第1のお陰は伝統作品を書いたから。第2のお陰は各国の翻訳がよかったから。第3のお陰は三島由紀夫くん。昨年(ノーベル賞)候補になりながら若すぎるからダメになりお鉢がまわってきた。受賞は大変名誉なことですが、作家にとっては名誉などというものはかえって重荷になり邪魔にさえなって委縮してしまうんではないかと思っています。」

    実は親交のあった三島由紀夫はこの年も候補にあがっており、選考委員は三島を高く評価しましたが、まだ30代と若かったこともあり、受賞を逃したことを受けての発言でした。

    その三島由紀夫が1970年(昭和45年)に割腹自殺をしたことは世間に大きな衝撃をもたらしました。けれど2年後に川端康成も自室のマンションでガス自殺をはかり自ら命を絶ってしまいました。

    遺書はなく自殺の理由は今も謎ですが、川端が死の6日前に「病とも申せぬ心の弱りを非常に意識しています」という手紙を書いており不眠にも悩んでいたそうです。

    文豪と呼ばれる人たちは繊細な感性と卓越した表現力を持っていますが、その感性ゆえに悩み傷つきやすくやがて現実と相容れなくなってしまうのかもしれません。

    (ミカドONLINE 編集部)


    参考/引用:川端康成 略年譜/茨木市  川端康成、今も残る「自殺の謎」 「国宝」3つも所有!目利きの顔も 三島由紀夫と川端康成、文豪2人の自殺の原因に「新事実」 2人はノーベル文学賞を争っていた!?: J-CAST テレビウォッチ 文豪はみんな、うつ など