電波の歴史~③生家の財力と母の支援と卓越のセンスで電波を実用化

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    電波を実用化したのはイタリアのマルコーニ

    科学の歴史では、重要な発見が産業分野で実用化されるまでに年月を要することがあります。どんなにすごい大発見でも実生活と関わりがなければ「それがいったい何の役に立つの?」と思ってしまうのが一般人の考えですよね。

    マックスウェルが理論的に証明してヘルツが実験であきらかにした電波の存在も、発見者のヘルツ自身がそれを問われて「単に理論の正しさが証明されただけだ」と答えたように、しばらくの間は学問上の功績にすぎませんでした。

    それを初めてビジネスに結びつけたのはイタリア出身の発明家で企業家でもあるグリエルモ・マルコーニです。

    ヘルツの記事と母の応援

    マルコーニは実業家として成功した父と著名ウイスキー会社の令嬢であるアイルランド人の母との間に生まれ、裕福な家庭で育ちました。学校には行きませんでしたが、両親が雇った家庭教師から勉強を教わり、中でも科学への関心は早くからあったようです。マルコーニに理解のあった母親はその資質を常に暖かく見守っていました。自宅に実験環境を用意するなどの支援を行い、実家からもマルコーニへの金銭的なサポートを得ていたという説もあります。

    マルコーニが20歳の夏(1894年/明治17年)、ある科学雑誌の記事が彼の目を引き付けました。それはその年に37歳の若さで亡くなったヘルツの追悼記事でした。マルコーニは電波のことはすでに知っていましたが、改めてその記事を読み、ひとつのアイデアが浮かびました。

    「これを使って通信ができるのではないか?」

    マルコーニは発信のON/OFFで電波の間隔を細かく区切ればモールス信号に対応できると思ったのです。この頃、電信(有線でのモールス信号)はすでに普及しつつあり、その数年前には公衆電話サービスが開始されるなど、通信はまさに先端技術のトレンドとして多くの科学者が研究に携わっていました。

    当初、マルコーニはその考えがあまりにも単純で誰もが思いつくものだったので、すでに誰かがやっているだろうと考えて、しばらく世間のニュースに注意を払っていました。ですが一向に発表がないので秋になって自分がやってみようと決意し、母が部屋を空けて用意してくれた実験室で研究を開始しました。

    マルコーニの母は彼の才能を認め、物心両面で彼を支えました。ある大学教授には息子への協力を頼み、研究室への出入りまで許可してもらいました。その教授と言うのがボローニャ大学でヘルツの研究をしていたアウグスト・リーギという物理学者です。こんな絶好の人物が隣の家に住んでいた幸運と母親の尽力で、マルコーニは学校教育を受けていないにもかかわらずリーギ先生の指導を受けながら、電波をつかった通信システムの開発に邁進することができたのです。

    マルコーニの父は計算高く現実的な実業家だったため、息子と言えども温情的な気持ちはありませんでしたが、若きマルコーニの両親へのプレゼン(実際の実験)を見ていくらかの出資をしてくれました。ですがそこには母の進言も多少あったようです。

    技術を実用化するビジネスセンス

    膨大な実験を繰り返して研究を重ねながら、1895年にマルコーニはついに2.4Kmの無線通信実験に成功し、これをイタリア郵政庁に売り込みます。けれど採用はされませんでした。この頃は電信だけでなくすでに電話(音声通話)網も普及し始めていたため、雲をつかむような無線の実現性がイメージできなかっただけでなく、イタリアという国自体が新しい技術への感性に乏しく、マルコーニの価値を認める下地がなかったのです。

    そこでマルコーニは船舶通信なら高いニーズが見込めるのではないかと考えて、海運王国だったイギリスのロンドンに母と共に移住します。船舶通信つまり移動通信体という新市場に注目したのです。マルコーニはアイルランド人の母とは幼いころから英語で会話をしてきたバイリンガルだったので言葉の壁は全くありませんでした。また、ロンドンには弁護士や会計士をしている母方の親せきも多かったので、イタリアでなくイギリスで無線を事業化することにしたのです。

    マルコーニは2年後にイギリスで特許を取得し、無線電信信号社(のちにマルコーニ社に改名)を設立しました。マルコーニの予想は的中し、マルコーニの無線サービスはイギリス海軍やロイズ保険組合などに採用されました。これには、一向に売れない無線機の販売をやめて、無線サービスの提供に方針を切り替えたことも功を奏しました。ロイズ保険組合は同社の保険をかけた船にはマルコーニ社の無線局を設置させ同社の社員を同乗させました。当時の船内無線局は船のオーナーが開設するのではなく、通信会社が設備と人をレンタルする仕組みだったのです。

    マルコーニ社の無線局を導入した船が増えるにつれて、事故や遭難で無線が大いに役立った事例も出始めました。無線の必要性が認知され参入するほかの会社も増えてきました。

    先人の知恵をうまく活用してビジネス展開

    マルコーニは1901年(明治34年)に大西洋横断無線を成功させて世界中の注目を浴び、1909年にはノーベル物理学賞を取りました。マルコーニは発明家とされていますが、実はそれほど画期的な発明はしていません。マルコーニの無線システムはどれも先陣の研究に改良を重ねたものがベースになっており、その意味では、他人の発明をアレンジして電球を開発し、それを基に電力網の普及に力を注いだエジソンにも似ていますよね。輝かしい実績とされる大西洋横断無線でさえもその成功を疑問視する声があります。

    ですが20代で会社を興したあと、当時のイギリスでは会うのさえ難しかった著名な物理学者のケルビン卿(当時70代)に技術顧問を依頼したり、25歳のときには、当時50歳に近かったあの「フレミングの法則」のフレミングを雇用するなど、先人の知恵をビジネスに取り込む能力に長けていました。

    こうしてヘルツが「何の役にも立たない」と語った電波はイタリアの若き企業家マルコーニによって通信の手段として商業化され、これが携帯電話なしでは生活できないぐらい移動通信体が普及しえている現在に至る大きな一歩になりました。

    後年、母への大きな感謝を述べているマルコーニに対して「学歴はなくとも資金はあった」と揶揄する表現も見かけますが、何よりもご本人の能力とそれを見抜いたお母さんの慧眼が無線通信の基礎をつくったのではないかと思います。

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